九百万人が海外で働くといわれるフィリピンで、他国でのトラフィッキング(人身売買)被害に遭う女性が後を絶たない。専門家は、経済危機の中で被害が増加していると指摘する。フィリピン政府も今月に入って新たな対策を打ち出したが、実態に追いついていないのが実情だ。 (マニラ・吉枝道生、写真も)
「私が働きに行った先は、地獄でした」。パンパンガ州で教師をしていたアリシアさん(37)は、中東で一年三カ月に及ぶ“地獄”を経験した。
英語教師募集という誘い文句につられて行ったのは、アラブ首長国連邦。待っていたのは過酷なメードの仕事と性的関係の強要。携帯電話やパスポートは現地の職業斡旋(あっせん)会社に没収された。
給料ももらえず「話が違う」と抗議する彼女に対し、斡旋会社は「性的関係を持てば金をもらえるのに」と逆に怒った。仲間の話から本当の仕事は“性的奴隷”だと気付いた。
数カ月後、同国人の助けを借りて逃亡。イスラム女性の黒い服に身を包み、ビル六階の窓のねじを外して逃げた。だが、協力者が脅されて行き先が見つかり、連れ戻された。
その後、偽造書類とともにオマーン、シリアと国境を越えて「転売された」。「最後の男が払った私の値段は三千ドルと聞かされた」と話す。常に性的な嫌がらせと過酷な労働がついて回った。トイレの中から母国のテレビ局に電話したことで、複雑な手続きを経て帰国を勝ち取った。
シリアでは入管施設にも拘留されたが、房内の壁に多くの比国人女性の悲痛な落書きがあった。アリシアさんは「今も多くの比国人女性が性的暴力を受け、捕らわれたまま。『もう帰れない。ここで老いていくだけ』という人もいました」と顔をこわばらせる。
政府は今月から、携帯電話のメールで海外就労の派遣会社が合法かどうかを確認できるサービスを開始。空港での監視強化も打ち出したが、過酷な現実は対策を上回る。
マレーシアで人身取引の犠牲となったバタンガス州のビッキーさん(31)=仮名=の場合は、フィリピン入管の係員も人身売買組織の仲間だった。
募集内容と違う過酷なメード仕事と暴力の日々を送った。体がもたず倒れて入院したが、現地斡旋会社の職員に激しく殴られた。最後は裸になるように命じられ、体を調べられた。次の仕事が売春だと気付き、監禁されていた部屋の窓から逃亡、フィリピン大使館に駆け込んだ。給料はもらえず、殴られ続けただけの海外経験だった。
「もう外国には行きたくないけど、ここでは食べていけない」と再び海外で働くため職業訓練を受けている。
被害者支援を続ける非政府組織(NGO)「オプレセンター」所長のスーザン・オプレ元労働雇用省次官は「実際の犠牲者数は分からないが、増えていることは確かだ。政府は海外就労を増やすことにばかり焦点をあてていて、対策も人材も不十分」と訴える。
現時点で、人身売買の悪徳業者らを対象に発行されている逮捕状は計二万九千件に上るという。だが、実際に捕まるのは氷山の一角だ。海外雇用庁によると、昨年の逮捕者は九十八人、有罪判決は八件のみだった。
<トラフィッキング> 人身売買、人身取引などと訳される。搾取を目的とし、だますなどして人を募集、移送して強制労働などをさせること。国境を越えた人身売買の被害者は推定で毎年60万~80万人で、8割が女性。アジアで全体の半数以上を占めると指摘されている。今月発表された米国務省の人身売買報告書でフィリピンは監視国リストに入れられている。